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大阪市立大学大学院 創造都市研科

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2003年度(2003.4~2004.3) ワークショップ講演

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■第11回ワークショップ(2003年6月26日開催)

●ゲストスピーカー:ユーザックシステム株式会社 相談役 井上 卓郎氏
タイトル : 七転び八起きの創業人生-人財こそ命なり
出会い・運・努力と社員の助けにより、大阪で長年会社経営、そして起業家育成へ
キーワード : 人財こそ命なり、人材育成、大阪、システム開発、起業家育成

1、ゲストスピーカーの概要

井上氏は、1963年同志社大学卒業後、大阪の文具問屋・山田商事(株)での丁稚奉公を経て、1971年大阪 にてユーザックシステム(株)を設立し、経営の全責任を任され、会計処理等の業務用ソフトウェアをはじ め、ニッチ分野におけるシェアの高いオリジナル・ソフトを中心とするシステム開発会社を長年経営してき た方である。 なお、同社は現在、動物病院向けシステムなども手がけており、ニッチ分野に特化した事業展開をしている。 1年半前に引退し、現在は相談役。同氏は、起業家育成に強い意欲と使命感を持っており、優秀な社員の採 用の手段として、将来独立して社長になりたいという人材を採用するという方針をとってきた。 すでに数名の若手社員が独立起業を達成している。

2、ゲストスピーカーの生い立ちと起業の経緯

(1) 故郷、愛媛から京都での大学生活へ

愛媛県のド田舎(自称)に、4人兄妹の長男として生まれ、両親は共に教員という家庭環境で18歳まで過 ごした。 将来は教員にとの考えを変えたのは、小学校6年生の時に母親の大病を経験したためである。医者を志して、 京都で2年間の浪人生活を送るも挫折し、結局同志社大学に入学した。2年間は1日も通学をせず、アルバイ トをしながら呻吟の生活であったが、同年代の就職活動等に発奮し、一気に単位の取得をして卒業できるこ ととなった。 しかし、年齢的に3年間の遅れが出てしまったため、一般の会社への入社が難しい状況であった。 そこで、たまたま下宿先の大家さんの紹介で、大阪の小さな文具問屋を紹介され、面接を受けることとなった。 いざ、面接へと文具問屋を訪ねたところ、瓦葺きの小さな2階建に驚き、別の会社へ行こうかとも考えたが、 思い切って古ぼけた開き戸を開けた。そしてそれが、その後経営の師匠となった社長の山田栄三氏との運命 の出会いとなった。


真剣な眼差しで、ご講演されている井上卓郎氏

(2)社会人としてスタート、そして起業へ

運命の面接から数日後、就職が決まり、社会人としての生活をスタートした。住み込みでの勤務で、起 床時間は早く雑用に追われる日々に、何度も別の会社への転職を考えたが、ここで逃げ出すのは悔しく、 踏み留まった。その後、先輩達ができない仕事に取り組むことにより古株の社員を追い越して、頭角を現し 始めることとなった。

現シャープ(当時の早川電機)が1964年世界初のソリッド・ステート型の電子式計算機(当時535,000円、 現在の感覚では約500万円に相当する商品)の販売を開始したことを知り、その電卓販売代理店の提案を会社 にしたものの反対されたが、同氏は強い熱意で何度も山田栄三社長を説得し、自らが技術研修を受けて販売 を開始した。技術研修により、電卓はコンピュータそのものだと理解でき、強い興味を持った。

(3)ユーザックシステム(株)の誕生

その後、山田商事(株)の仕入先の一つである内田洋行(株)が石川県のベンチャー企業、宇ノ気電子株に 出資し、USAC超小型コンピュータの販売とサポートを始めたことを知り、取り扱いを提案し反対されたが勝 手にセールス活動を開始した。しかし、文具問屋でのコンピュータ販売に限界を感じ、山田栄三社長に自ら の受託協力実績を示して、コンピュータ専門会社の設立を打診した。井上氏は、人間一人でできる力の限界 を感じており、特にコンピュータ関連の仕事をするにあたっては、文具問屋とは違った能力の人材が必要で あり、若い優秀な“人財”を採用するためにも、別会社にする必要を感じていた。この頃から、「人財こそ 命なり」を考え始めた。ようやく山田栄三社長の決裁もおり、井上氏に加え、内田洋行(株)から出向してく れた伊藤鎮男氏と社員2人の4人で、別会社としてユーザックシステム(株)を設立し専務取締役となった(す ぐに代表取締役社長に就任)。設立資本金は8百万円。1百万円を取引先の内田洋行(株)が出資し、残り全額 を山田栄三社長が思い切って出資してくれた(現在の感覚では1億円くらいに相当)。設立後、山田栄三社長 は見守り励ますだけで、一度も経営に口出しをしなかった。

会社設立は優秀な人材確保のための設立が当初の目的であった。設立時のパートナーが現在のユーザッ クシステム社長の伊藤鎮男氏である。そして、一台でも多くのUSAC超小型コンピュータ・システムを売るべ く、怒涛の営業に走り回る日々が始まった。設立第一期に雇用した社員6人は、あまりの過酷な研修で辞め てしまったが、その教訓を胸に、ひたすら人材育成に努めた。「人・人・人」、会社は、人材育成が一番 重要で、人を大切にして優秀な社員を育成するという現在のユーザックシステム(株)の企業理念「人財こ そ命なり」の土台作りが始まった。

(4)ソフト開発センターの設立から大ヒット商品へ

モノの販売だけでは顧客満足に限界があると感じ、R&Dの概念を企業としてしっかり持ち、自社製品 の開発を目指して1982年ソフト開発センターを設立し、ユーザーのニーズにフィットした満足度の高いソフ トの研究開発を始めた。大阪市のあるユーザーにて1本のプログラムで納入先指定の票帳30種類をコントロ ールできるソフトウェアを開発できないかという強い要望があり、その後多くのユーザーからの要望が相次 いだ。ソフト開発センターでの開発を進め、1986年指定伝票処理ソフト『伝発名人』が完成し、日本市場初 の祖ソフトであり、大ヒット商品となった。 1本100万円で売り出したこのソフトは改良が続けられ、現在も同社の収益の中心的存在となっている。

2、自らの大病そして最大の倒産危機を乗り越えて

1988年、同氏はB型肝炎と胃がんで全胃摘出手術を受け、1年の間休養を余儀なくされた。83kgの体重も 60kgにまで激減し人相まで変わるほどであった。ちょうどその頃の日本経済はバブル期の終焉を迎えようと していた時期にあたり、バブル経済の崩壊後は、ユーザックシステム(株)も業績の低迷、資金繰りの悪化に 見舞われることとなった。創業以来初めて社員を削減せざるを得なくなり、断腸の思いであった。ほとんど の社員が自己都合による退職を選択してくれ、たいへん有り難かった。会社は4つに分割し、この危機をど うにか回避し現在に至っている。また、自分が病気静養のため、出社できないにもかかわらず、社員が頑張 って危機を乗り越えてくれ、そのことに深く感謝している。


大病と経営危機の時代を振り返る井上卓郎氏

3、30年の社長業から起業家育成へ

同氏は1997年、ユーザックシステム(株)の会長に退き(創業期からのパートナーである伊藤氏が社長に就 任)、そして現在は相談役となりビジネスの第一線から引退した。

思い起こせば、大学時代の貧乏な下宿生活で出会った大家のおばあさん、中小企業の親方である山田栄三 社長、そして自分を支えてくれた社員など、よい出会いに恵まれ、そして、無我夢中でがむしゃらにやって きた30年間であった。 自分は決して能力があるわけではないが、社員が自分を本当によく支えてくれた。そのことに感謝している。

私は残りの人生を、若者がチャレンジ精神を持って、夢に向かって独立起業していくことを応援すること に費やしたいと考えている。失敗など恐れずに、自分の信じたことにチャレンジしていくべきである。失敗す ることを恐れる必要はない。

4、起業の場としての大阪

自分自身は、いわゆる第1次ベンチャーブームの時期から大阪のマーケットで鍛えられ、大阪で長年事業を 行ってきた。その経験から言えば、大阪でじっくり事業を構築し、評価のシビアな大阪で認められるものを作 れば、東京でも通用する。私は、大阪の進取の気風に富んだ企業風土が大好きである。大阪を東京と比べて卑 下する必要は全くないと考えている。

以上


記録担当院生:岡﨑和夫・古田義親

 

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